コラム

私が国際協力の仕事を選ぶまでの話① ー幼少期~協力隊参加 編ー

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※この記事は、2020年6月10日に実施されたオンラインイベント「協力隊のキャリアパスー多様化する世界との携わり方ー」でお話させていただいた内容から一部抜粋し、加筆したものです。

こんにちは、板垣暁歩(@gakisan2)です。

先日、オンラインイベントの講師を務めさせていただき、自分のこれまでのキャリアパスについてお話する機会がありました。(ご参加頂いた方、ありがとうございました)

これまで目の前の事や先の事ばかりに気を取られていましたが、これまでの自分を振り返り相手に伝えることで、自分の中で新たな発見があり、改めて自分を知る良いきっかけになりました。

この記事は、実際に講演させていただいた内容から抜粋(一部加筆)して書きました。

現在、私は国際協力NGOとして働いていますが、それまでにどのような軌跡をたどってきたのかをお話しすることで、

私がどのような体験や思いを経て現在に至るのか、私がどういう人間なのかを少しでも知っていただければ幸いです。

また、これから国際協力を志す方にとってのヒントに”もしも”なるようなことがあれば、こんなに嬉しいことはありません。

協力隊との出会いから参加に至るまで

まずは私がはじめて国際協力に携わった「青年海外協力隊」との出会いとそれに参加するまでの道のりをお話します。

出会いは小学校の授業

JICAの青年海外協力隊制度について、初めてその存在を知ったのは小学校4年生のときでした。

何の授業だったかは定かではないですが、先生に協力隊のビデオを見せてもらいました。

その内容はほとんど覚えていませんが、アフリカで井戸を掘るようなシーンがあったことを記憶しています。

当時の私は、「これ、いつか行きたい!」と直感的に思い、両親や周りの人に「俺、いつか協力隊行くから」と言いふらしていたと思います。

私の目立ちたがり屋の性格だった幼少時代ならではの行動ですね(笑)

「いつか」を「いま」にした大学院での挫折

その後も、私の「いつか協力隊に行く行く詐欺」は続きます。

中学、高校、大学と、さすがに誰にでも言っていたわけではありませんが、親しい友人には相変わらず「いつか行く」と言っていました。

そんな中、「いつか行く」が「いま行く」に変わる出来事がありました。

それは大学院での挫折です。

もともと大学を卒業したら教師になろうと思っていました
(ほんとにいつ協力隊行くつもりだったんでしょうね笑)。

しかし、バイトや遊びにかまけていた私は、何とか4年で卒業は出来たものの、教員免許をとるための単位を落としてしまいました。

教員免許を取るには、もう科目等履修生として卒業後も追加で授業を取らねばならず、半ば「しょうがなく」大学院に進むことになります。

ただ、こんな情けない理由で大学院に進学したところでうまくいくはずもなく、

研究の目的も意欲もない私は、この状況がしんどくなり、「逃げたい」と思うようになりました。

そんなときに思い出したのが「協力隊」でした。

このときの私は、国際協力をしたいという思いよりは、協力隊に合格すればこのつらい状況から脱することができる、しかも何なら大学院を辞める理由としても十分だとすら思っていました。
(ほんと大馬鹿野郎です。。)

悩んだ末に参加を決断

こんなことを考えていたのが、大学院2年目の春頃でした。

もう修了するための単位もほとんど取り終えていて、あとは修士論文を書くだけでした。

普通に考えて、あとちょっと頑張って大学院修了して、就職してから協力隊行けばいいじゃんって思いますよね。

両親に電話で伝えても同じように言われるだけでした。(まあ当然ですよね。)

でも、あの時は「そんなこと意味ない」「今やってることは自分のためにならない」「今すぐ辞めるべきだ」という思いしかありませんでした。

ある晩、その思いが頭を駆け巡りすぎて、ついに眠れないまま朝になってしまいました。

「これはまずい、もうこのまま騙し騙し大学院通ってたらおかしくなる!」と思った私は、そのまま車を走らせ、千葉から実家のある山形に帰ります。

突然帰ってきた私に驚いている両親をよそに、「俺、大学院辞めて、協力隊受けるから」と宣言しました。

両親は考え直すよう説得はしてくれましたが、最終的には私の考えを尊重してくれました。

今思えば、大学の学費なども工面してやった息子が大学院を急に辞めて海外行くとか、どの口が言ってるんだと思いますし、しかも働きもせず海外でボランティアとか人生舐めてますよね。

本当に両親には感謝しかありません。

協力隊への応募、そして合格

その後、すぐに大学院のあった千葉に戻った私は、協力隊の春募集への申込みを行いました。

試験までは、国際協力についてや英語の勉強をした記憶があります。

そして、その年の夏に「サモア独立国への派遣決定」という通知を頂くことになります。

そして合格通知と同時に、大学院を中退しました。

ちなみに、「サモアは自分で希望したんですか」という質問をよく頂きますが、答えは「NO」です。

私が当時希望していたのはアフリカでした。
(たしか南アフリカ、ザンビア、ナミビアだったような気がします)

理由は、「協力隊といえばアフリカ」という固定観念があったからでした。

恥ずかしながら、本当にそれだけの理由です。

あと、これもう時効なんで言いますが、当時南アフリカでサッカーW杯の開催が決まっていて、南アフリカ行ったら見れるかもと思ってました。本当にその節はすみませんでした。

こうしてサモアへの派遣に向けて動いていくことになります。

協力隊への参加で大きく変わる人生観

協力隊の参加が決まると、派遣前訓練というものを日本国内で3か月弱行い、実際に派遣国へと出発することになります。

ここからは、協力隊に参加してからのお話になります。

訓練所で出会った「かっこいい大人たち」の存在

訓練所では、同時期に派遣される様々な国のボランティア候補生が一堂に集まり、語学訓練などを行います。

私はほぼ新卒だったので、周りにいる人たちは、30代の社会人を経験した方々、もしくは60代の定年を迎えたシニア協力隊の方々もいらっしゃいました。

自分よりも年が上で、社会経験がある人たちが、自分のやりたいことに向かってイキイキしている姿が衝撃でした。

みんな年代や経歴もバラバラな人たちが一つ屋根の下で共同生活をする訓練は、本当に刺激にあふれた毎日でした。

そんな中で、「かっこいい生き方をしている大人」がどういうものなのかが分かった気がしました。それは今もなお、自分の中で目標としている姿でもあります。

第二の故郷になったサモア

その後、サモアでの2年間、理数科教師として活動することになります(このあたりはいずれ詳しく書きます)。

この2年間で、サモアは私の第二の故郷になりました。

ハプニングこそたくさんありましたが、サモアの同僚、村の人、子どもたち、関わった人みんなに本当に良くしてもらいました。

私は村でたった一人の(村史上初めての)日本人として2年間過ごしたわけですが、

自分がマイノリティになる経験というものは、日本にいる間はほとんどありませんでした。

サモアで自分がマイノリティとなって初めて、マイノリティの人たちが抱える大変さやストレスがとても大きいものだということを知りました。

そしてそれ以上に、マイノリティの人が周りに気遣ってもらったり親切にされることでどれだけ救われるかということを学びました。

これは、国際協力を仕事にする今も大切にしている経験です。

そして、帰国する頃には、私はサモアが大好きになっていました。

自分の家以外に帰る場所がある、自分を待ってくれている人がいることは、本当に私の人生を豊かにしました。

協力隊のあとに残った後悔

2年間を終え、日本に帰国した瞬間は達成感でいっぱいでした。

今思えば、当時の私にとって「協力隊に参加すること」は国際協力をするための手段ではなく、小さいころからの夢を叶えるという目的だったんだと思います。

しかし、日本でしばらく生活するようになり、サモアのことで思い出すのは「あのときこうすれば良かった」とか「もっとサモアのためにできたんじゃないか」という後悔や悔しさでした。

新卒で教員経験もほとんどない私がサモアの教育のために貢献できたことは、何もありませんでした。

経験がないことで自信をもってアドバイスしたり、積極的に活動できなかったのかもしれません。

この悔しさは、私が日本に帰って来てからの7年間、ずっと心の中にくすぶり続けました。

そして、ついにある決断をすることになります。。

続きはこちらからどうぞ。

私が国際協力の仕事を選ぶまでの話② ー協力隊帰国後~新たな挑戦 編ー

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板垣 暁歩

国際協力NGOルマナイサモア所属
サモアを愛する国際協力師
2020年7月よりサモアで算数・数学教育の新たなプロジェクトをスタート予定。「教育で人と世界をつなぐ」をモットーにサモアと日本の学校をつなぐプロジェクト進行中。ライターとして教育・国際協力の記事も執筆。

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