※この記事は、2020年6月10日に実施されたオンラインイベント「協力隊のキャリアパスー多様化する世界との携わり方ー」でお話させていただいた内容から一部抜粋し、加筆したものです。
こんにちは、さもあき(@gakisan2)です。
先日、オンラインイベントの講師を務めさせていただき、自分のこれまでのキャリアパスについてお話する機会がありました。(ご参加頂いた方、ありがとうございました)
この記事は、実際に講演させていただいた内容から抜粋(一部加筆)して書きました。
前回のコラムの続きとなっていますので、まだ前回の記事をご覧になっていない方はこちらからどうぞ。
私が国際協力の仕事を選ぶまでの話① ー幼少期~協力隊参加 編ー
帰国後の新しい生活と迷い
協力隊の任期を終え、サモアから帰国した私は日本で教員として働くことになります。
その中で、日々の仕事に充実感を感じつつもある不安と迷いが生じます。
協力隊後の進路
自分の小さいころからの夢だった協力隊を達成した今、私にはもう一つ思い描いていた夢がありました。
それは教員になることでした。
サモアでの活動が教師だったので、ある意味では協力隊に行くことで2つの夢を同時に叶えたとも言えますが、
日本では教員として働いた経験がほとんどなかったため、日本の学校現場を経験したいという思いがありました。
また、サモアで自分の思うような活動ができなかったのは、自分の日本での教員経験が乏しかったせいだとも思っていました。
サモアで悔しい思いをした原因は、日本で教員になることで明らかになると思ったのです。
帰国後、一年間は教員採用試験の勉強をして、試験を受け、何とか合格を頂くことができました。こうして、教員の道へと進んでいくことになります。
教員を続けるうちに沸き起こる不安と葛藤
教員の仕事は楽しかったですし、やりがいに満ちあふれていました。とくに生徒と向き合っている時間は多くの学びがありました。
ただ、教員として働き始めて4年が経ち、大体の仕事を一通り経験すると、仕事の向き合い方や考え方が変わっていることに気づきました。
「こうすれば生徒は理解する」「そう言っておけば生徒は不満を持たない」
という浅い経験から得た前提をもとに仕事をするようになっていました。
また、教員になりたての頃は、協力隊の経験を学校現場でも活かそう!と熱い思いをもっていましたが、実際はそれどころではなく、そんな経験を発揮する機会もニーズもない現実を目の当たりにし、いつしかそういう思いも薄れていました。
そして何よりも自分にとって窮屈だったのが、
自分が違うと思っても、他の先生の意見や学校のルールに反するようなことを言ったり、足並みを揃えないような行動をとることが許されないこと
もちろんこれは自分が勝手にそう感じてしまっただけで、気にせずできる先生もいるとは思います。
しかし、私はそういうことを言ったり行動したりする勇気はありませんでした。
何かを変えなければ
こういったモヤモヤが溜まり始め、何かを変えなければと思うようになったのが5年目でした。
決定打になったのはディズニー映画「モアナと伝説の海」を見に行った時でした。
モアナはサモアがある南太平洋の島々がモチーフとなった映画で、
その冒頭5分間が、南太平洋の人々や文化、美しい自然をふんだんに詰め込んだモアナの世界に引き込まれるようなシーンなんです。
それを見て、大号泣。。(隣に座った妻が引くほど笑)
相当精神病んでるなと自分でも思いました。
そして映画を見終わり、決心したのでした、「サモアへ帰ろう」と。
サモアに帰るための大学院進学
サモアに帰りたいと思い、私が選んだ方法は大学院進学でした。
ここからは大学院(10年ぶり2回目)に進学した話。
大学院という選択肢
「モアナ見てサモア行きたくなる」というある意味で典型的なディズニーマジックにハマった私でしたが、
ただ旅行で行くにも仕事休めないし、せっかくサモア帰るなら1カ月~2カ月くらい滞在してのんびりしたいと思っていました。
そんなときに、妻から出た「鳴門教育大学大学院に国際協力専門のコースあるらしいよ」という一言。(というかもう”お告げ”だと思ってますけど)
たしかに、今の仕事休職して大学院行ってサモアの研究したらサモア帰れる!
即ホームページ調べて、気づいたら説明会に参加していました。
大学院入学を決意した要因
その後、説明会に行き、その日に入学を決意し、夏に試験を受け、次の春に大学院入学を果たす訳ですが、
実は大学院説明会でも運命の出会いがあったんです。
大学院の説明会の後、学生寮の見学ツアーを実施していて、せっかくだからと見学しに行ったところ、
学生寮の廊下で完全に見覚えのある懐かしい体型の留学生を見かけました。
絶対にサモア人じゃん!!と思ってダッシュで駆け寄って話しかけたのは、私の妻(私ではなく)。
なんと本当にサモアからきた留学生だったんです!
その時、もう完全に私の心は決まりました。
その後、大学院でサモアの数学教育について研究を行い、実際にサモアに3か月も滞在することができ、無事里帰りを果たすのでした。
現在につながる3つの奇跡の出会い
さて、こうしてめでたくサモアに行くことができた私でしたが、現在のNGOの仕事につながるお話も実は、この大学院在学中の出来事でした。
実は、入学当初は国際協力の仕事を自分ができるとはあまり思っていませんでしたし、なれたらいいなとも思っていましたが、ダメなら教員に戻ろうとも思っていました。
しかしここから起こる3つの奇跡によって、今の仕事へと導かれることになります。
【1つ目の奇跡】同じ志をもったサモアOVとの出会い
大学院在学中に、私が所属する協力隊サモアOB会のメーリスであるお知らせを目にします。
それは、香川大学でサモア展というイベントを行うという話。
しかもその主催者はサモア隊員OVで、これからサモアを支援する団体を立ち上げたいとのこと。
そのメールを見た瞬間、ワクワクが止まりませんでした。
ぜひ一度お会いしたいとメールを送り、お話する機会を持っていただくことに。
彼が、いま私が所属するNGOルマナイサモア代表との出会いでした。
その時は私から何かお手伝いできないかと相談し、団体を立ち上げるので一緒にやりませんかと声をかけてもらって現在の理事の立場として合流したのでした。
【2つ目の奇跡】サモアでのプロジェクトの採択
このように団体に合流した私でしたが、自分はまだ学生で、国際協力の経験も協力隊の2年くらいしかなく、団体として大きな活動をするのは少なくとも10年くらい先ではないかと思っていました。
しかし、そんな風に思っていた私にあるとき代表から、「JICA草の根技術協力という制度を使ってサモアで教育プロジェクトを立ち上げてみませんか」という提案がありました。
最初はそんなの応募しても通るのは難しいのではとも思いましたが、「応募だけならタダだし、もしかすると板垣さんならチャンスあるかもしれない」と言われ、応募してみることにしました。
それがまさかの「採択」を頂けることになったのです。
正直、採択を受けても自分の力で何ができるのだろう、まだ早いんじゃないか、もっと経験を積んでからでいいのでは、という思いもありました。
しかし、一番恩返しがしたいサモアのために仕事ができるならば、そして大好きなサモアにまた帰れるということで大学院修了後の進路を決めました。
実際、他の進路も応募していましたが、全て不採用になり、サモアしか私には残っていませんでした。でもむしろ、サモアで腹をくくれと言われているような気がして、逆にすっきりしました。
【3つ目の奇跡】サモア教育省職員との出会い
私が通っていた大学院では、毎月のようにJICAの国別研修などが行われていたため、途上国から研修員が常に訪れている恵まれた環境でした。
あるとき、再び運命の出会いがありました。
サモア教育省の小学校算数のトップが研修員として参加していたのです。
すぐさま、話しかけ、私がサモアで始めようとしているプロジェクトについて説明しました。(この頃はまだ採択が決まっていませんでした)
すると、私のプロジェクトを素晴らしいと言ってもらい、ぜひ一緒にやりたいと言ってくれたのです。
その後、修論の調査でサモアに行った時も色々と面倒を見ていただき、プロジェクトについても教育省のさらに上の方にも話を通してもらい、非常に活動を進めやすい環境を整えることができました。
こうして、サモアでのプロジェクトに向けて準備を進めていくことになりました。
思わぬ障害となった感染症の世界的流行
さて、本来であれば、2020年7月からプロジェクトがスタートする予定でした。
しかし、現在(2020年6月)まだ日本に待機している状態です。
ご存知の通り、感染症の世界的流行により、現在も入国が制限されている状態のため、このままだと予定通りにはスタートできそうにありません。
しかし、それでも出来ることはあります。
例えば、このブログもその一つです。
サモアの状況や魅力、私のサモアでの活動を知ってもらうことを通して、サモアへの興味や関心を持ってもらうことは、サモアへの貢献になり得ると思っています。
また、プロジェクトやその他の事業についてもじっくりと考える時間を頂いたと思い、今は前向きに与えられた時間を有効に活用しようとしています。
そして何より、ここに来るまでのたくさんの奇跡や出会いを無駄にしないためにも、サモアでのプロジェクトを決してあきらめません。
どんなことになっても、必ず最後までやり遂げようとステイホームしながらひそかに燃えているのです。
これからもブログを通して、板垣暁歩を応援していただければありがたいです!